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2-食生活のうつりかわり(2)

(1)鎌倉・室町・安土桃山時代

貴族文化から武家社会となった鎌倉時代には、食生活も、一汁一菜など簡素なものとなった。宋から伝わった禅宗の影響で、質実剛健を重んじる武家文化の下、精進料理が広まった。茶が普及するのもこの時代である。茶は、奈良時代にすでに中国より導入されていたが、栄西が宋より茶の文化を持ち帰り、茶の製法や効用について「喫茶養生記」を記し、喫茶文化が武家を中心に広がっていく。

続いて、形式を重んじる室町時代になると、武家のもてなし料理である本膳料理*1が登場した。本膳料理は、平安時代の貴族階級における儀礼食にはじまるとされている。政治の場が京におかれた室町時代、武家発の食の文化に、公家文化の影響が加わり、本膳料理より派手なものになった。江戸時代に発展するが、明治以降は廃れてしまっている。今では冠婚葬祭の儀式にその名残が見受けられる。婚礼の際の三々九度もそのひとつである。

その後戦国時代を経て、華やかな安土桃山時代に入るが、この時代は、千利休による茶の湯が完成し、茶とともに供される懐石料理も考案された。また、外国との交流も盛んでポルトガルやスペインから南蛮文化が伝えられた。南蛮菓子(カステラやこんぺいとう)など、当時は非常に珍しいものであったであろう。

(2)江戸時代

鎖国という状況での江戸時代、外からの文化の移入はほとんどなかったが、参勤交代、また伊勢参りなどの旅によって、人や物の往来が活発となった。商業も発達し、町人の生活も裕福となり、町人文化が花開いていく。

江戸には、地方からの食材や調理法が導入され、その影響で、そばやにぎりすしなどの新しい食文化が生まれ、外食店も増えていく。グルメガイドのような料理屋番付なども発行されるほどであった。そして「煮売」といわれる煮物を販売していた惣菜のルーツというべき商売(図1)も江戸時代に誕生している。調理法についても、豆腐百珍をはじめとする料理本も数多く出版されている。今では、人間文化研究機構国文学研究資料館蔵書の古文書オープンデータのサイトから、江戸料理レシピデータセットが閲覧できるようになっている。

ただし、これらの料理は、庶民や下級武士にとっては高根の花であり、通常は、ご飯、汁物、漬物程度の食事が一般的であった。

図

図1 煮売り酒屋(出典:クリナップHP

(3)近代

鎖国が解かれると、西洋文化が一気に広がった。パンや肉食、ビールなどの西洋料理が導入され、同時に日本人の嗜好に合わせた牛鍋やあんパンも考案された。「惣菜屋」という言葉が登場するのもこの頃で、前述の「煮売」に加えて、コロッケやフライなど各種の加工食品を売る店が現れて「惣菜屋」と呼ばれるようになり、サラリーマンや通学生が増えたこともあり、弁当のおかずとして重宝がられたという。また、洋食が家庭の調理まで浸透しなかったこともその理由という。既に大正時代には、カレーライス、かつ丼、ラーメンも登場している。食品製造技術も発展しており、キャラメルやマヨネーズが既に生産されていた。

その後、昭和初期には世界恐慌、第二次世界大戦により食料不足が深刻になり、終戦後までは窮乏の時であった。食料は配給制となり、人々は芋やかぼちゃの葉や茎などの耐久食を強いられた。終戦後は、アメリカやユニセフの援助を受けた脱脂粉乳、パン食の学校給食が一般的になり、栄養改善運動などが普及し、パン食・洋風化が進んでいった。そして、日本人の食は経済成長を背景に質・量ともに豊かになり、「飽食の時代」へと向かっていく。そして今や、人とモノに加え、情報が瞬時に伝わる時代となり、食のグローバル化や均質化が進んでいく。

<参考>
*1 本膳料理

現在の懐石料理のように、料理の順番や組み合わせなどを体系的に決めた饗応料理。本膳、二の膳、三の膳、さらに与の膳、五の膳と続くこともあり、一膳がかなりの料理の数を含むので、かなり多品種大量の食事となる。